これまでに4,000を超える工場の現場を訪問してきた中小企業のものづくりのスペシャリストによる連載コラムの第12回です。本連載では、日本の町工場のものづくりの現場を分かりやすく解説します。
解説は、政策研究大学院大学 名誉教授 橋本 久義 氏です。
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(本コンテンツの著作権は、橋本 久義 様に帰属いたします。)
【第12回】笑顔と絆で育む、井上鉄工所の挑戦
留学生を家族のように迎える井上裕子社長
スリランカで政情不安が噂されたとき、「スリランカ人のP君は大丈夫かしら?子供達だけでもウチで預かろうかしら」と本気で心配していたのが、埼玉県上尾市にある井上鉄工所の井上裕子(ゆうこ)社長(写真1)だ。創業57年、社長としては7期目を率いる。私は今まで弊学の学生を色々な企業に連れて行っているが、訪問した留学生と家族のように接し、その後社員の会合に招待してくれたという社長は、井上裕子社長以外はいない。
P君のご子息達と裕子社長のご子息達の年齢が近いこともあり、家族ごと祭りや遊園地へ遊びに連れて行ったり、帰国後も学生空手のスリランカ代表として日本の大会へ参加したP君の次男のスポンサーも引き受けた。だからこそ、冒頭のような心配も出てくるのだろう。クーデターの数日後、P君のFacebook投稿に、「家族連れでシンガポールのディズニーランドに行った」という記事があり、「中学と高校の息子達にも相談したけれど、それぞれの学校への受け入れの実現性が乏しく、力になれずに残念だったけれど、無事で何より」と裕子社長。「なんだか、クーデターが起こったようなことが書いてあったのに、公務員のP君が家族でシンガポールに旅行に行けるちゅうのは、どーゆ-ことやねん!! クーデターやる方も、やられる方も、一生懸命やらんかい!!」と私は思ったが……。
いずれにせよ、そのような美人で、笑顔が素敵で、留学生にも親切な井上裕子社長が経営する家庭的な会社が井上鉄工所だ。

写真1 株式会社井上鉄工所 代表取締役 井上裕子 氏
父・創業者から受け継いだ自由な気質
「父であり、井上鉄工所の創業者である井上博文(写真2)は何でもできる器用な人で、当時は珍しく女の子の私にも何でも自由にやらせてくれました。書道も打ち込んでいましたが、小学生からずっとソフトボールに熱中していました。」高校1年の夏には進学校ならではの「部活はその辺にしておいて、勉強しましょう」という風潮に反発し、「ソフトボールは今しかできない!一生勉強!と父は言ってくれていたし!(と都合よく解釈:笑)」と、日本脱出を思いつき、『行くならやっぱり、ソフトボールの本場のアメリカへ』と。しかしそんな大それたことは、とても両親には言い出せなかった。だからアメリカ留学の試験を受けて合格した後も、両親には内緒にして手続きを進めていた。ところが最後の最後に『両親面接』をするという。それを言い出せないまま面接の前日になってしまった。夕食の支度時に母に持ちかけるも「良いから早くお皿並べて」と撃沈。「言い方が悪かったのか?」と思い直し父とテーブルを挟むも「きちんと話さないと伝わらない」と余計に緊張。『明日、アメリカ留学のための両親面接があるんだけど……』となんとか切り出したが、父親の博文さんは「社長に対して、前夜に翌日の都合がつくと思うのか!馬鹿者!」と一蹴。「あ〜、テストに受かるだけでは足りないのだ。。。」と意気消沈のまま、翌日、面接会場の廊下の奥に父の姿を見つけた時には、驚きで言葉もありませんでした。博文さんは苦笑交じりに語る「私に似て、子供のころから芯が強く、窮地にも静かに何かを考えて、それを行動に移すこともできる子でした。雪の日に庭にほうりだしたことがありましたが、最後まで泣きませんでした。なんでも歯を食いしばって我慢する子でしたから、あの時留学させなくても、別の方法で渡米していたでしょう」

写真2 左:井上博文顧問 中央:井上裕子社長 右:井上好弘顧問
こうして15歳で合格してアメリカへ留学した。アメリカでも南部の田舎であったが、通った高校のソフトボールチームは日本からの戦力を得て快進した。当時のアメリカの新聞に「東洋のコルト拳銃(小さいが威力がある!)来る!」というような記事が掲載されたという。「アメリカの選手たちは皆大柄で、レスラーのように筋肉隆々の選手もいました。その中で、私は小学生のように見えるので、かえって目立ちました。でも周りに誰も日本人がいないので、ホームシックだった頃は毎晩のように家に電話しました。当時、日ー米間の国際電話は『最初の3分までが3240円(1987年)以後1分ごとに980円』というような料金体系で、私はお金がないので、コレクトコール(電話を受けた人が電話料金を払う)で電話していたから『毎月の電話代が30万円にもなった』と苦笑いの両親。諦めずにサポートしてもらったんだなと感謝の気持ちで一杯でした。」
アメリカの大学へは高校時代の成績を買われ、ソフトボール特待生で入学し、続けて「今しか出来ない!」ことに熱中した。アカデミックの面は美術史(ギリシャ、ローマ時代)を専攻し、卒業したら、さらに勉強を進めて将来的には博物館、美術館などに勤務するかなと考えていた。工学も経済学も経営学も興味なかった。しかし、振り返るとアスリート達は設計も管理も経営もするのであり、14年に渡る選手時代のノウハウは井上鉄工所の会社経営に生きている。
卒業当時はジャパンアズナンバーワンとも言われていた時代のため、日本人は人気があり、いくつかの企業の内定も出て、アメリカで働こうとも思ったというが、心の奥底で、今一つアメリカ人の日常にはなじめないところがあったという。「アメリカの若さというか、前だけを向いて挑戦し続ける状態が圧倒的な正義、ぶつかり合って解決する気質、『持ちつ持たれつ』や『譲り合って共存する』というような時間の流れの幅を共有することがまだ出来ないのか、優柔不断さ=弱さのような解釈へも少々違和感を持っていました。もちろん、アメリカの優れたところもたくさん学びましたし、私の心身のいくらかはアメリカ人(?)で間違いありません。笑)湾岸戦争の緊張感もアメリカ国内で経験し、6年間の留学は一旦終了。バッテリーを組んだルームメイトやホストファミリーをおいて、日本に帰ることにしました」(時は流れ、今年、32年ぶりに息子達を連れて里帰りが叶いました。早くも旅立ってしまった友人も数人おり、献花の旅でもありましたが、翻って他の友人だった皆が家族を持ち、その家族が交流することで更に大きな家族となる喜び溢れた再会ともなりました。これ以上の優れた国際親善はないと感じています。)
帰国後、TPMコンサルティングの企業へ入社(Total Productive Maintenance)=企業が持続的利益を確保できる体質になるよう、作業工程の改善や、5Sの徹底、人材育成をする手法)「家業が鉄工所でしたから製造業に関しては『門前の小僧習わぬ経を読む』で、自分が思っている以上に経営者側からの思考性に覚えがあるのが強みでした。少人数でしたから何でもやらせてもらって、面白かったし、この時に顧客企業(大企業が多かった)の幹部の方々とも多くお会いしたので、井上鉄工所に入った後にも立ち振る舞いの面では役に立ちました。」ちなみに裕子さんには、大学1年生の長男と高校2年生の次男、二人の息子がいて、実はあの笑顔の下には大層な「教育ママ」がいるらしい。笑)
御家再生を託された 創業者 井上博文さん の少年期
創業者の井上博文さんは1942年生まれ。(2024年10月に他界)5人兄弟の3番目に生まれた。戦争の混乱で母方の鋳物屋はチリチリバラバラになってしまい、父親はサラリーマンとなった時期があったが、小さい頃から膝の上にのせられて「御家再生」を託された。他の兄弟に対しては、言っているのを聞いたことがなかったようで、父親も適性を見ていたのだろう。
中学校を卒業して、大手のトラックメーカーに入った。夜間は浦和高校へ通いながら、得意のバトミントンでも活躍した。大企業に就職できたことで皆にうらやましがられたが、父親の「社長になれ」を覚えていたので、一通り機械の扱い方がわかった段階で中小企業に転職した。これは大企業では創業の役に立つノウハウは得られないと思ったからだ。そこで六年ほど修行して、1966年に職場結婚し、その直後に独立創業した。「独立して、カミさんにも楽をさせてやろう、というつもりだったのですがとんでもないことで、逆に苦労ばっかりかけました。機械を買って町工場をはじめましたが、とにかく仕事がなくてメシが食えない。2年くらいは収入がない状態で、結局カミさんの給料で食べさせてもらいました」
「上尾にはNディーゼル、T時計というような大企業がいくつかあったので、町工場がかなりありました。そこを順に『何か仕事をやらせてもらえませんか?』と訪ね歩きました。辛かった。でも仕事がもらえれば嬉しかった。休み無しに、歩いたり、仕事をしたので、手がしびれて、ミカンの皮をむけなくなったこともありました。色々な情けをもらいました。あのころ仕事を出してくれた人の恩は50年たっても忘れません」と博文さん。
御家再生からグローバル共創へ ― 井上鉄工所の挑戦と継承
苦労しながらなんとか軌道に乗ったのが創業3年目のころ。軌道に乗り始めると、『難しいもの、新しいものに挑戦する』という博文さん本来の性格が出てきた。NC機械が出始めた頃に、いち早く高価な最新鋭NCマシン(写真3)を導入して珍しがられた。埼玉県でも導入しているところが少なかったし、まして従業員数名の町工場が持っている例がなかったので、工作機械メーカーにモデル工場として重宝され、「町工場でも導入して成功している例があるのですよ」というサンプルに使われ見学者が引きも切らなかった。これが何よりの宣伝になって、井上鉄工所にも注文が次々に舞い込むようになった。

写真3 大型旋盤(50番)
現在はトラック・建設機械など、大型車両の重要保安部品である、車軸ハブ、マニホールドなど、各種バルブ、インフラ関連の鋳物製品、20kg~300kg程度の大型部品の加工が中心だ。コロナ禍で受注が激減した際に営業し始めた「小ロット多品種へのシフト」がようやく実を結び始めている(写真4)。

写真4 工場棟4棟(保有機械台数50台)
事業承継難と並行して、同業他社が姿を変える中での生き残りをかける。主に鋳鍛造品切削加工は父の時代は「異形材を削る」から「量産の重要保安部品の品質保証」であった。私の代では「パンデミック」、「働き方改革と少子化」、「為替とエネルギー」、「人手不足がDXを加速させる」と課題が刻々と変化しているが、58期を迎え、継続的にメーカーの信頼を得てきた先代と社員達の努力が現在の安定した需要先となっているのが強みだ。また、CFC(仮称)として、「ワンストップ受注」事業部も立ち上げを準備している。CFCとは、キャスティング=鋳造、フォージング=鍛造、カッティング=切削加工の頭文字をとり、三社三様の技術を持ち寄って新しいものを創出しようという試みである。2025年11月の埼玉ビジネスアリーナにてオリジナル製品をご披露したい。デザインを専攻した営業マンが長年の経験から「様々な技術の総合プロデュースを事業化したい」が実現目の前である。
また、冒頭の逸話のように、40年前から井上鉄工所は日本人外国人の垣根がなく、且つ、社員数は40名前後でかなりウエットな家族経営型であり、昨今の「外国人との協働」にはストレスが全くない。(現在は半数以上が外国人)。年に1回の全員社員旅行(コロナ禍中は2年間中止、3年目には断行:外国人、子供達も同行(写真5))、月ごとのバースディランチ会(写真7、8)などの交流会(写真6)を大切にしている。1980年代に海外研修生を受け入れはじめたが、その時には、社内の公用語を英語にして、指示書も、購入する新聞も、つけているテレビも、社内アナウンスも全部英語にした時期があったという。何でも良いと思ったことはとことんやってみる起業家の博文さんらしさも垣間見れる。

写真5 毎年恒例の社員旅行

写真7 バースディランチ会

写真6 年末の忘年会

写真8 バースディランチ会
聞けば、昔から井上製作所で働いてくれた人達、特に外国の人達とは今も交流があるという。「私は人生一期一会と思っております。一度ご縁ができた人は、私の方から関係をきることはありません」

写真9 10tトラック用のトラックヤード
リーマンショック後の立ち上がりに成功し、2016年に一大決心をして、近所に売りに出ていた10,000m2の工場跡地を買い取って、従来いくつかに分かれていた工場を一ヶ所にまとめた(写真9)。創業時から少しずつ買い足して、拡大してきたためやむを得ないのではあるが、元の工場はラインの形が不合理で、あちこち飛び地があり、横持ちの距離がべら棒に長かった。それが新工場になってきちんとレイアウトされ、ムダが少なくなった。
「私もそろそろいい年なので、2019年、裕子に継がせる決心をしました。裕子はしっかりした子で、製造現場を知っているし、TPMの専門家としての知識もある。これからも技術開発を怠らなければ、仕事はあると確信しています(写真10)」

写真10 ランチ会を一番楽しんで
いたのは父かもしれない
57期始めに大黒柱を失ったが(井上博文:2024年10月に他界)、混乱はなく、2025年9月には58期のキックオフを迎えることが出来た。60期へ向けて「再起動」を仕掛ける。そこに立った「景色」を社員と分かち合いたい。工場長補佐に30代の3人を抜擢し、社長や幹部からの教育が始まった。 来期には「外国人工場長」が誕生する計画。ベトナムの国立大学からのエンジニア新卒採用も完了し、育成最中である(写真11)。

写真11 溶接研修

写真12 電力も動力も使わず挑むものづくりコンテスト

写真13 100kg超の大型部品加工にも対応
井上社長によれば、この40年来培ってきた「外国人との協働ノウハウ」を活かし、「外国人技術者との協働アドバイザリー」事業を立ち上げたという。これは紹介や派遣とは一線を画し、中小企業製造業の「人手」不足を解消するだけでなく、「人材として扱い、シナジーを構築する」ことを目的としたコンサルティング事業であり、 同社としてもこれまで以上に日本の製造業に貢献していきたいとの思いが込められている(写真14)。

写真14 集合写真「減コロナ禍で減った仲間も、また少しずつ戻りつつある」
これまでのコラム
第1回 日本の町工場は人材育成工場
第2回 継ぐ者、継がれる者
第3回 会社を成長に導く社長の共通項とは
第4回 伸びる会社の社長は他人の能力を正しく評価し、活用できる
第5回 たった一人の板金工場から、革新的なアイディアと技術力で急成長を遂げ、その後、ものづくりベンチャーの援助に汗を流し続ける町工場の社長=浜野慶一さん
第6回 発明王 竹内宏さん
第7回 水馬鹿になって安心な水つくりに取り組む 桑原克己さん
第8回 大森界隈の名物会社 金森茂さん
第9回 夢を描き、進化させる 田中聡一さん
第10回(前編) 母から娘へ、技術と理念を繋ぐ-小松ばね工業(株)
第10回(後編) 母から娘へ、技術と理念を繋ぐ-小松ばね工業(株)
第11回 逆境を跳ね返す ものづくりの情熱
筆者紹介 橋本 久義(はしもと ひさよし)
政策研究大学院大学 名誉教授